北口雅章法律事務所

弁護士のブログBlog

名刑・革手錠事件・紹介者の「ペリリュー島戦跡探訪記」

        わたしの弁護士人生においてライフワークとなった名古屋刑務所事件

この事件の紹介者は,実は,父の警察大学時代の同期生(友人)の中口武男さんだった。
中口さんは,石川県警の元警察官で,同郷(石川県出身)の誼で父とは馬が合い,警察大学卒業後も,付き合いが続いていたようだ。
平成14年10月初旬ころだったと思うが,名古屋刑務所の刑務官らが革手錠を使って,懲役受刑者らを「虐待」した(大ウソ!!!)という名古屋刑務所事件の関連報道が新聞各社の紙面を賑わしていたとき,亡父は,脳梗塞の術後で市内の病院に入院中だった。このため,母を介して,中口さんから連絡があり,M副看守長の弁護人を引き受けることになった。
M副看守長も,石川県(羽咋市)出身で,当時,金沢刑務所から名古屋刑務所に赴任してきていたが,M副看守長の先輩刑務官(金沢刑務所)が,伯父である中口さんに相談した結果,知人の息子である私に,M副看守長(その家族)を紹介してきた,という経緯だった。
名古屋刑務所事件の刑事裁判は,中口さんには,「面目ない結果」(有罪確定)となってしまったが,再審請求中であり(革手錠事件の方は名古屋地裁に係属中。ちなみに,放水事件の方は,最高裁第一小法廷に係属中。),未だ希望は捨てていない。


  
ところで,私は,父から中口さんの話はきいていたが,中口さんがどのような顔の方かは,存じ上げなかった。
ところが,今年,正月実家に顔を出したとき,偶々,中口さんが,「いしかわ’99」と題する冊子の平成11年3月号(通巻第646号)に「ペリリュー島戦跡探訪記」(上掲)と題する見聞録を投稿されており,父が,その切り抜き記事を保管していたので,この方だったか,と思った。

「ペリリュー島」の戦記物については,このブログでも,既に紹介しているが,」
<参照> https://www.kitaguchilaw.jp/blog/?p=984
中口さんの見聞録「ペリリュー島戦跡探訪記」の中から,興味を覚えた話を二つほど紹介しておきたい。

1.「敵将に教えられた愛国心」

 平成10年7月初め,「パラオ戦跡探訪ツアー」に参加し,玉砕の島ペリリューを訪れ,密林の中に,きれいに手入れされた芝生の広場の奧に小さな神殿があり,朽ちかけた木の鳥居の下に,高さ80㎝,横1mほどの御影石の石碑があった。
そして,そこに刻まれた横書きの日本文字を読んで,中口さんは,深い感銘を受けたという。

(碑文)「諸国から訪れる旅人たちよ,この島を守るために,
    日本軍人がいかに勇敢な愛国心をもって戦い,
    そして玉砕したかを伝えられよ
         米太平洋艦隊司令長官 C・W ニミッツ」

 こんな碑文を書ける提督が相手では,
 日本海軍がミッドウエーで大敗北するのも,むべなるかな,だね。

 

2.「大和撫子(やまとなでしこ)七変化(しちへんげ)」?

⑴ 「ガイドの説明」によると,「玉砕後も,極少数の日本兵が洞窟に潜んで,米軍を苦しめた。そして,最後の日本兵を射殺して,鉄かぶとを外したところ,黒髪の若い女性であった。その勇戦奮闘を讃えて,米軍は,後方の山頂に米日両軍の合同慰霊碑を建てたという。」

⑵ 「戦後刊行の戦記物・秘話」によると,高級料亭「鶴の家」の芸妓「久松」は,H少佐の愛重(あいちょう)をうけていたが,H少佐のペリリュー島守備兵赴任に伴い,その後を追って,黒髪を切り,軍服を着て渡島した。懇願の末,「軍属」と認められ,激戦の後,H少佐の後を追って自決した。

⑶ 「米軍・スキー軍曹の話」によると,三方から包囲された日本兵が,機関銃を乱射したために,海兵隊の死傷者が86名を数えたが,戦車隊の援護射撃で,やっと射殺した。その勇敢な日本兵に敬意を表すべく近づくと,破れた軍服から覗く肌の白さに,女性を分かって深い感銘を受けた。

⑷ 「終戦後も洞窟に立てこもり,1年8ヶ月後に,米軍に投稿した日本兵が,投稿後に米兵から聞いた話」によると,急な坂の斜面から一人の日本兵が,手榴弾を投げてきたため,米軍に7,8名の死者が出た。応戦して射殺後,踏み込んだところ,倒れていた日本兵は,細い優形(やさがた)で,服を外したら,オッパイが出てきた。日本には勇敢な女性がいるんだなぁと思い,十字架を立てた,とさ。

私のひとり言:上記⑴ないし⑷のいずれにも脚色があるように思われるが,日本の女性兵が,孤軍奮闘,複数の米兵を手榴弾で殺害した事実があったような感じはするなあ。)